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写真展のタイトルは「かけら」ですが、若くして亡くなったキンスキ・イムレのキャリア自体が「かけら」として終わってしまったという意味合いと、今回ご紹介する写真は彼が残した作品全体の一部、つまり「かけら」であるという二つの意味を込めています。

キンスキ・イムレは1901年3月10日にブダペストで生まれた写真家で、祖父シッレル・ジグモンドは植物学者でジャーナリスト、ドイツ語新聞のペステルロイド紙の編集長を務めたという、ユダヤ系知識人の家庭に育った。若いキンスキは、強い知的好奇心にあふれ、その一端としてピアリスト派の高校生として雑誌「20世紀」に投稿するなどし、医学部に進学するものの、一年目の課程を修了後、生物学に転籍したが、追い打ちをかけるように大学で許可されるユダヤ人学生の数に制限が設けられ、大学在籍への道は閉ざされた。
その後、当時の著名な文学者や科学者の名前がつらなる小冊子雑誌「Nyugat」(仮訳:西)や「Szintézis」(仮訳:総合)に、彼は自然哲学と社会心理学の記事を投稿し、活発に知的世界とつながる活動を行っていた。さらに活動の基盤を作るためにハンガリー繊維業協会の文書管理職に就き、そこで後に彼の妻となるガールドニ・イロンカと出会い、彼の「地元」にもなるブダペストのズグロー地区で住居を借りた。1927年に息子のガーボルが、1934年に娘のユディットが生まれたが、彼の最初のカメラはその息子が生まれたときに妻から贈られたものであった。
小さなカメラは、より本格的な機材へと代わっていき、キンスキ自身も特別な至近距離からの撮影(マクロ撮影)に適した「KINSECTA」という名のカメラを考案し、植物の一部、小さな生き物、更には微小な生き物までがお気に入りの被写体になった。その後の興味はブダペストに向き、写真の一部は仕事中の職場の窓から撮影されたが、五か国語に堪能で、正確に仕事をする彼を咎める人はいなかった。昼下がり、最後の書類を閉じた瞬間、「第二の仕事」が始まった。つまり、カメラを手に街の中を歩き、光と影の姿を追うという仕事である。遺された作品からは、彼が興味を抱く被写体の地理的境界線を見ることができる。それらは、ドナウ川岸やブダペスト中心部のエリザベート地区の通りの数々と特に頻繁に撮影したのはブルガリアからの移民が普及させた野菜園「ブルガリア庭園」に囲まれた二階建ての我が家と当時開発途上だったズグロー地区と隣接するローナ通りとラーコシュ川付近だった。
キンスキの革新的な作風は、テーマを選択することではなく、新しい発想に基づく形式言語であった。すなわち静物写真やストリート写真、そしてスナップ写真の形を作り上げ、光と影の割合を調整し、特に「窓の遠近法」を作り上げた。それは、雨や光の中に浮かんだ、生きた街の心を揺さぶる鼓動、あるいはそれを傍観する市民、日常的な街路の姿をファインダー越しに捉えた。
キンスキは次第に写真家として頭角を現し、1931年から1936年までハンガリー・アマチュア写真家協会(MAOSZ)の会員となり、1937年1月からは現代ハンガリー写真家団体を設立し、新聞「Tükör」(仮訳:ミラー)や「Búvár」(仮訳:ダイバー)と仕事をするようになり、現代ハンガリーの写真作品に関する本も編集した。また、当時の時代の流行であった文学団体にも所属し、セントラルカフェで定期的に開催された会合にも参加した。
キンスキの写真は「ナショナルジオグラフィック」や「アメリカンフォトグラフィー」など国外の著名な写真誌でも紹介されたものの、日に日にユダヤ人への制裁が強まる中、その人脈を通して彼自身と扶養家族の国外移住を行おうとした。一度はニュージーランドのパスポートを手にしたが、他の家族と離れ離れになるため決心できず、世界的な悲劇へ足を踏み入れることになってしまう。
1943年から、強制労働に招集されるようになり、1944年11月ブダペストのフェレンツヴァーロシュ駅から家族に宛てた手紙が生きた証の最後になった。1945年、ドイツのザクセンハウゼンへの道中、人生の幕を閉じた。一方、当時成年になったばかりの息子はブーヘンヴァルト強制収容所で拷問を受け命を落とし、夫人と娘はペスト地区のゲットーで大戦の終わりを迎えた。数少ない所持品の中には、ひと箱のネガも入っており、それは、厳しい状況が終わることを信じてキンスキが託したのであった。夫人はいつか彼が帰ってくると信じて毎日駅へ行き、夫の到着を待った。娘のユディットは今日まで父の形見である芸術遺産が風化しないよう全力を尽くしている。また、彼のヴィンテージ写真はアメリカやヨーロッパの名高いギャラリーや個人コレクションに所蔵されている。
写真展の学芸員はKincses Károlyと Bodnár Zitaです。
本展覧会では、キンスキの生きた証である写真作品の数をご紹介します。
