1932年の第10回オリンピック大会は世界恐慌の最中に開催され、前回も立候補したロサンゼルスが今回ようやく開催都市に選ばれました。(実際のところ、カリフォルニア州は他の都市の立候補がないまま開催地に決定しました。)国際的な経済恐慌はオリンピックにも大きな影響を及ぼし、4年前のオリンピックに比べると、参加国数は9か国少ない37か国、参加選手数も半分以下の計1332名になりました。 しかしながら、それでも成果を上げ、陸上競技と水泳競技合わせて35個のオリンピック記録が更新され、2週間で18個の世界新記録を樹立しました。ハンガリー選手団の活躍については、総合得点が初めてこの大会で100点を超え、また約30年後に最も実績を残したハンガリー人選手として引退する事になる、フェンシングのゲレヴィチ・アラダール選手が初めてオリンピック出場を果たしました。水球の男子ハンガリー代表チームはオリンピック初となる金メダルを獲得し、体操競技ではペレ・イシュトヴァーン選手の活躍により、二種目で一位に輝きました。ブダペスト生まれのペレは、前回のアムステルダムオリンピックでデビューを飾りましたが、1930年までは国際大会では大きな結果を残すことはありませんでした。しかし、1930年にルクセンブルクで開催された世界体操競技選手権の鉄棒種目で一位を獲得したことで、体操競技におけるハンガリー初の世界チャンピオンになりました。それから2年後、ロサンゼルスオリンピックで床とあん馬で金メダル、平行棒と個人戦においては銀メダルを獲得しました(後者の種目では多くの議論がありますが)。ロサンゼルスオリンピック開催前には、ペレが確実に国を出発できるかも定かではありませんでしたが、寄付により参加が実現し結果を残しました。オリンピック後、ペレは第二次世界大戦で徴兵され、後にアメリカの捕虜になりました。戦後はアクロバットで世界を周り、最終的にはアルゼンチンに永住しました。ハンガリー初の体操競技のオリンピックチャンピオンは、1986年にブエノスアイレスで永眠しました。
【参考文献】
✳wikipedia
✳olimpia.hu
✳Ághassi Attila: 177 olimpia mese